会員だより

「遥かなるロシア」《昔々の物語》 
〜出会いと別れ・思い出のロシア人教師たち〜


岩佐 毅(学20P)


学び始めたАБВГД

神戸港停泊のソ連船にて(右が私)

私は19歳の春、岡山の片田舎を出て、モダンな海と山の街・神戸に移住し、六甲山麓東側の高台にあった神戸市外国語大学に入学、35人の同級生とともにабвгдとロシア語を学び始めた。

校庭からは、眼下に神戸市東部の街並みが見渡せ、陽光にきらめく瀬戸内海も遠望でき、とにかく景色は抜群であった。


しかし、戦前の女学校跡の古い木造校舎で、全学800人の極めて小規模の学校で、これが本当に「大学」かと拍子抜けするような気持ちであった。

そして、ほとんどの学生が当時国立一期校と呼ばれた花形の大学を不合格となって、止む無く第二志望の外大に何とか入学したという、いわば"落ち武者"事情の者が多かった。そして、よるとさわると、「どこどこ大学を受験した」との落第校自慢の話に花が咲くという、情けない状況であった。


個性的なロシア人教師の思い出


当時まだ日露間の学術交流も乏しく、外国人教師もロシアからスムーズに招聘できないという事情があったらしい。

そこで、ネイティブのロシア人教師も、一人は歩くのもやっとと言う大柄な老言語学者プレトネル先生であり、もう一人はロシア革命時満州に亡命した白系露人の極普通の主婦で、赤ら顔のイリヤ・レベジェバ(『白鳥』の意味)先生であった。このレベジェバ先生は日本語は理解できず、まだアルファベットを覚えてもいない学生に向かって、金切り声を上げて、何やらロシア語で叫ぶばかりで、会話の勉強には全く役に立たなかった。

このレベジェバ先生にはユリアン・レベジェフという弟がいて、戦前東大に留学し、昭和20年満州に帰国するつもりで東京駅に向かったところ、前日の空襲のため鉄道が止まってしまっており、結局客船に乗り遅れてしまった。その後、彼が乗船予定の客船は米海軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、乗客、乗員のほとんどは死亡してしまったという。

しばらくして終戦を迎えたが、中国では国共内戦が続いており、結局彼は帰国をあきらめ大阪に流れ着いた。


レベジェバ先生の弟は中古家電販売で成功


そして、ユリアン氏は大阪市内の日本橋電気屋商店街で中古家電を補修販売するビジネスで成功し、不動産多数を所有する資産家となった。

私は彼が90歳前後の頃何回かお会いし、姉のイリヤさんの思い出話に花を咲かせた。

ある時彼が「相談があるんじゃが」と言うのでよく聞くと「僕結婚しようと思うんじゃ。どう思うかね?」と言うのである。彼は90歳となっても決して情熱を失わず、インターネットを通じて、ロシア在住の女性と遠距離恋愛を楽しんでいたのである。

ところで、外大卒業後数十年たったある日の朝刊に「おーモイ・ドーム!」という見出しで懐かしいイリヤ・レベジェバ先生についての記事が掲載されたので、さっそく読んでみた。すると彼女が当時居住していた住宅を、暫く家を空けていいた間に、家屋解体業者が間違って解体し、家財道具や大切な楽譜類もすべて廃棄処分してしまい、彼女は大いに嘆いているという記事であった。


朗々と響いた「ボルガの舟歌」


さて、もう一人のロシア人教師である、オレスト・ビクトロビッチ・プレトネル氏はいつもお洒落な黒いロングコートを羽織り、低く陰鬱な声で静かに語る紳士であった。先輩たちの話では、彼はペテルブルグ大学東洋学部で言語学を学び、3回来日留学し、その後ロシア革命直前に在日ロシア帝国大使館に通訳官見習いとなり4回目の来日を果たした。

そして、共に来日していた弟のオレーグ・プレトネルはコムニストとして活発な政治活動を始めたため、日本政府から国外退去を命じられ、オレストも1922年に大使館を解職され、イギリスに渡り、日本語教育に携わった。

その後、フランス、ドイツなどを流浪したのち、再度30歳となった1923年に来日して、小樽商大、大阪外語大、神戸市外語大などで教鞭を執った。

その頃、彼はやはり日本学者であった、親友のニコライ・ネフスキーと枚方の宿舎でともに暮らした。そして、その後、ネフスキーは小樽出身の萬谷イソ(筑前琵琶の名取)と娘のエレーナを伴って革命直後のロシアに帰国し、レニングラード大学教授に就任した。ところが1937年10月4日ネフスキー夫妻は密告によって突然逮捕され行方不明となった。

そして、一人残された娘のエレナは無事生き延び、小児科医となった。その後、ペレストロイカが始まり極秘文書の閲覧が可能となり、エレナの懸命の調査の結果、彼女の両親は、逮捕直後11月24日同日にKGB本部で共に銃殺刑に処されていたことが判明し、泣き崩れた。(ネフスキーの悲劇的生涯については「天の蛇」河出書房刊に詳しく描かれている。)

さて、くだんのプレトネル先生のほうは、その後、林幾久という滋賀県の医師の娘と結婚し、スベトラーナという娘が誕生し、生涯無国籍のまま、神戸で没している。

このプレトネル先生が、一度ある日講義中、突然「今からロシアの歌を唄います」と宣言し、急に声を張り上げて、「エイ・ウーハネム、エイ・ウーハネム」と朗々と教室中に響くような低く、太い声で、農奴たちが川船を曳きながら唄った「ボルガの舟歌」を声を振り絞って朗々と歌唱し始め、学生たちも静まり返った。

その時の先生の瞳はまるで遥か彼方の祖国を思い出すかのように遠くを見つめており、陰鬱な歌声は教室中に響き渡り、学生たちはその美しいメロディーに暫く聞きほれていた。

晩年のプレトネル先生


(令和3年8月25日)

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