リレーエッセー 第55弾

「恩師 中村龍一先生」

杉原 雄二郎(2EB)

文人墨客という言葉は大正ロマンの雰囲気を漂わせておられた先生を表している。

髪はオールバックにされ長身白晳でよく通る低い声で蘊蓄を傾けて授業を進められた。 私はアーネスト・ヘミングウェイの「老人と海」を教材にした講読の授業を幸いにも三年次で受講することができた。 現在は英語、英文が氾濫し日常目にし耳にする何でもないフレーズでも昭和三十年(1955年)当時はそれなりの説明が必要で、参考書も少なく困っていたので、稚拙な質問をしてもその都度懇切丁寧に応えて下さったので本当にありがたく思った。

また書の道も能くされ、その達筆振りは書道家も一目置くという能筆家であった。尺八もプロ級で、尺八を得意とする私の知人と虚無僧姿で街々を流そうと半ば本気で話し合われていたこともあった。 旧制中学校で敗戦を迎えた私にとって、文化人である先生に畏敬の念をもってご指導をいただいたものである。

「一度私の家に遊びに来ませんか。」と招待を頂いたのは昭和三十一年の冬のことであった。 何事にも几帳面なお人柄でタバコはピースの両切り、酒は銘酒加茂鶴・剣菱に決めて嗜まれていた。その時は小林信次郎君(僑横釘繊Ω銃錺丘会会長)も招かれていて、三人で「英語」を中心に談笑を重ねた。 先生は時々鋭い指摘・指導はされたが主として聞き役に回ってくださった。 その時も痛飲しそれでも足りず街の酒場まで出掛けるという始末で三名共若かったものである。

昭和三十五年頃から先生を囲んで元町にあった料理屋(開拓会館)で忘年会を開くようになった。 初めは五・六名であったこの会は年々大きくなり昭和四十三年・四年頃、誰言うとなく英語教育に携わる者が集まる会を別に開こうという話になった。 「その会の名は英鵬会にしよう」と誰かが大きな声で言った。 先生は黙って杯を傾けておられたが、この会が摂丹地区の英語教師の会と合流し英鵬会になったと記憶している。 かつての英鵬会の規約も昭和四十三年ごろから参加した故金城孝治君(9ED)が中心となってまとめたもので、会誌「楠ヶ丘」にも収録されている。 このことから先生は将に英鵬会の「生みの親」と言っても過言ではない。

平成十四年九月二十六日皆に惜しまれながら安らかに永眠された。享年八十七歳であった。

被爆アオギリ2世の成長

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2017年4月25日
(撮影日:2017年04月25日)

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