リレーエッセー 第25弾

「心の響き、心の風景」

総務部 野村和宏(修12E)

六甲のキャンパスで過ごした日々のさまざまな風景は今でも鮮明に蘇ってくる。 教室はもちろんだが、学舎4階にあった講堂には特に深い思い出がつまっている。

講堂を授業に使っておられたのはデシェイゾー先生で、講堂後ろの奥まった小部屋には先生が作られた演劇用の大道具、小道具がぎっしり積み上げられていた。 先生の授業は英米学科専攻英語のII階程会話で学生に演劇を体験させるものだった。 そこから語劇祭でシェークスピア劇に取り組む名優が多く生まれていった。 私は語劇には参加しなかったが、授業の中で大きな声でさまざまな感情を表現しながら体を使って英語を表現する喜びを学んだ。

その講堂は混声合唱団の練習場でもあった。 高校時代からコーラスを始めた私は外大の合格発表の日にその周りで勧誘をしていた混声合唱団の先輩を見つけ、その場ですぐに入団の意思を伝えた。 まだ入学式の前だった。そうして始まった私のクラブ生活はこの講堂で4年間続いた。 月曜日の夕方、水曜日の午後、土曜日の午後になると部員が講堂に集まってくる。 一年生の仕事は部室から指揮台と譜面台を、そして学舎4階の普通教室から椅子を運び、練習隊形に配置し、定刻に練習を始められるようにすることだった。 練習が終わればみんなであっという間に片付ける。 こうした作業は当たり前のごとく毎回繰り返された。

講堂は天井が高く、床は木造り、壁も木や漆喰で、かなりの空間があった。 このため残響が豊かで、お互いの声を聞きながらハーモニーを合わせていくのには好都合だった。 窓のガラスはところどころ破れており、冬になると六甲おろしの隙間風が吹き込んで、しんしんと冷え込む。 練習の最初はコートを着込み、マフラーを首に巻いて寒さをしのぎながら歌い始めるのだのが、練習が進むにつれてみんなどんどん軽装になっていった。 反対に夏はもちろん汗をびっしょりかきながらの練習だった。ヨーロッパの歴史ある名ホールはその器の中で響いた素晴らしい演奏の音を吸収しながら育っている。 まさにこの講堂はわれわれの歌声を日々吸収し、われわれと時間と空間を共にしながら成長する存在だった。 日本の合唱曲、ロシア民謡、黒人霊歌、第九、マドリガル、モーツァルト、ブラームス、ブルックナーなどなど、数え切れないほどたくさんの曲を歌った。 この響きの中で培われていった外大混声の合唱は高く評価され、私が正指揮者を務めた間、関西合唱コンクールで2年間連続金賞をいただいた。

もちろん外大校歌もよく練習した。 当時は混声合唱団の歴史の中で一番人数の多かった時期だったと思う。 65人ほどの団員をかかえていた。 そのため入学式や卒業式で校歌を歌う際にも、当時は道をはさんだ図書館の大教室で行われていたが、それでも部員全員が出ると場所がないので人数を絞り込んで歌った。 毎年1月には神戸文化ホールで定期演奏会を行っていたが、私は2年生の時には副指揮者としてステージを一つ振り、3年生、4年生では正指揮者として演奏会に臨んだ。 外大の講堂で磨き上げた声とハーモニーは神戸文化ホールの美しい残響の中にスーッと溶け込むように響きわたり、それは豊かで感動的な音楽体験だった。 今、楠ヶ丘会サイトの母校の思い出の中にある校歌音声はそうした定期演奏会の冒頭で歌ったものの録音である。 旧講堂からの遺産といえば、クラブの先輩から譲り受けたグランドピアノで、これは今の外大小ホールに移され、折りにふれて使われている。

画像の一つは私が4年生の時の演奏会のチラシである。 もう一つの画像は講堂の後ろから正面を眺めたもので、その演奏会のプログラムの表紙を飾った。 当時の講堂の様子を記録するものとして実に貴重なものである。これは故中山正人君のイラストで、彼は部長としてこの大所帯をまとめ、みんなに愛された素晴らしい友人だった。 4年間過ごしたこの場所を慈しむように、一生懸命デッサンをしていた彼の後姿を涙なくして思い出すことはできない。

この旧講堂は既に存在しない。 しかしその空間に包まれて青春の日々を共に過ごした仲間の心の中には心の響き、心の風景としていつまでも生き続けていくだろう。

被爆アオギリ2世の成長

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2017年4月25日
(撮影日:2017年04月25日)

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